2008/5/4 日曜日

SF競馬対決!第3回:天皇賞(春)

Filed under: SF競馬 — Norma Oyama @ 12:50:16

昨日SFセミナーはお疲れ様でした!

午前のホール企画、「SpeculativeJapan始動!」にはじまり、
夜は旅館での合宿企画に突入、深夜・朝方までゲストの方々をまじえてSF三昧。みなさま多数のご参加ありがとうございました。
私もまだ眠いです…

さて本日は、いよいよ春の天皇賞です!
http://www.jra.go.jp/keiba/thisweek/2008/0330_2/syutsuba.html

両者の予想は以下。
#山野氏は馬番、川又氏は枠番での予想ですが、気にせず淡々と当たり外れを楽しみます。

■山野予想(「血が走る」東京中日スポーツ5/4より)
※注:数字はすべて馬番
単勝:12
馬連:12-13
3連複:4,10,12,13のボックス
3連単:12から4,10,13へのマルチ

「アイポッパー出遅れなければ勝てる 京都で大駆け多いサッカーボーイ産駒」
詳細は元記事をご参照下さい。

■川又予想
※注:数字はすべて枠番
 1-3
 1-5
△2-6
 2-8
 (3-3)
◎3-5
 3-7
 4-8
×5-5
○6-8

以上、どんな展開が待ち受けているのでしょうか。
本日、第137回 天皇賞(春)(GI)京都11R:15時40分発走。
結果をお楽しみに!!

ご案内:尾山ノルマ(speculativefictionお手伝い)

2008/5/2 金曜日

5/3 SFセミナー企画「Speculativejapan 始動!」

Filed under: 未分類 — Norma Oyama @ 12:57:28

いよいよ明日です。

5/3開催の「SFセミナー」では、
http://www.sfseminar.org/
当会Speculative Japanメンバーが顔を揃えた、パネルディスカッションが行われます。

題して、「Speculativejapan 始動!」10:45~11:45
ゲスト(敬称略):荒巻義雄・山野浩一・川又千秋・巽孝之・増田まもる(司会)

企画紹介: 1960年代、バラードらのニューウェーヴ運動やそれに対応する山野浩一と荒巻義雄の活動から40年余。昨年2007年、ワールドコン席上ではジュディス・メリル発案、グラニア・デイヴィス、ジーン・ヴァン・トロイヤー共編の日本SF傑作選『Speculative Japan』をめぐるパネルが組まれたのをきっかけに、いま世代を問わぬ有志が集まり、21世紀のSFを占う新たな理論空間が構築されようとしている。
 Speculative Japanとは何か? その新たなスタンダードへの道はどれか?
 電脳空間以後の内宇宙飛行士は、いまどこを飛ぶか?
(文・巽孝之)

また、夜の合宿では、上記企画のフォロー企画をはじめ、荒巻義雄選考委員長による日本SF評論賞企画、また川又千秋氏と70年代SFを語る企画も行われます。
ぜひご参加ください。

詳細は、SFセミナー公式サイトで。

■SFセミナー2008
・本会企画
Speculative Japan 始動
藤崎慎吾インタビュー 海洋SF―SFから見る、海というフロンティア
ショートショートの現在
磯光雄インタビュー・電脳コイルの世界
■開催日
2008年5月3日(土・祝日)
■会場・時間
本会:全電通労働会館ホール(東京・御茶ノ水)
合宿:ふたき旅館(東京・本郷)

2008/4/20 日曜日

『百億の……』の謎は深まる―第3回日本SF評論賞への補足的見解

Filed under: 評論 — The Aramaki @ 4:15:45

〈評論〉
 『百億の……』の謎は深まる―第3回日本SF評論賞への補足的見解

 受賞作、宮野由梨香著『阿修羅王は、なぜ少女か』 の明快さは、題名そのものからして訴求力がある。筆者を含めて多数が不意をつかれた思いがしたことであろう。約一〇〇枚の評論としては十分長い原稿を、終始リズムよく、飽きさせず読ませる力量に感心しながら、昔は吹いていたファンダムの風を感じていた。言い換えると、作家や作品に対する愛情である。丁寧に扱い、決めつけがないので好感が持てた。
 さて、賛辞はこれくらいにして、本作に触発されて筆者はどう考えたかを述べておきたい。

 Ⅰ)多くの疑問

 〔疑問Ⅰ〕
 えッ、そうだったの――と思いつつ、手許にあった『百億の昼と千億の夜』(日本SFシリーズ⑪早川版』を読み直すと、やはりあった。一三四ページ、終わりから二行目以降である。(註、筆者は文庫版は持っていない)

「悉達多太子か」
 はためく極光を背景に一人の少女が立っていた。
「阿修羅王か」
 少女は濃い小麦色の肌に、やや紫色をおびた褐色の髪を、頭のいただきに束ね、小さな髪飾りでほつれ毛をおさえていた。

 さらに光瀬龍は、

 少年と呼んだほうがむしろふさわしい引きしまった精悍な肉づきと、それに似つかわしい澄んだ、黒いややきついまなざしが、太子の心をとらえた。

 と、つづけているので、〈少女〉は直喩でも隠喩でもなく、まさに少女なのである。
 たしかに不可解である。阿修羅の性は、吉祥天や弁財天のように女ではないのだから。いかなる書籍でみても阿修羅のイメージは男性である。
 光瀬龍が愛した興福寺の阿修羅像はどうであろうか。今ではグーグルの画像データで見ることができるが、多くの人は少年を思い浮かべるであろう。

〔疑問Ⅱ〕
 第五章「喪える都市」二二二ページ以降、阿修羅王はなんの断りもなく、平かな表記で〈あしゅらおう〉となる。
 プラトンの場合は、オリナエのプラトンと前出されているので、オリナエと表記されても混乱はないのだが。

〔疑問Ⅲ〕
 さらに一三五ページ一一行目だが、阿修羅王は宿業によって兜率天に攻め込み帝釈天の軍勢と四億年もの間、戦うことになっている。これも不可解であって、帝釈天のいるのは、阿修羅と同様、とう(リッシンベン+刀)利天である。

〔疑問Ⅳ〕
 宮野論SFM二〇ページ上段に光瀬龍の一文があり、乾脱婆王のことが書かれているが、ガンダルバもしくはケンダツバと読む。元はインド神話の妖精で、神々の飲み物ソーマ酒の番人であったが、仏教に取り入れられて、帝釈天に使える音楽奏者となる。帝釈天はとう利天の統率者であるから、当然、乾脱婆王もとう利天に住んでいるはずである。しかし、光瀬龍の創作(金翅鳥王縁起十二経より)では、兜率天となっている。

〔疑問Ⅴ〕
 転輪王が転輪聖王と表記されるのはまちがいではない。だが、受賞作の指摘では、ハヤカワ文庫版のあとがきで、突然、転輪王が天輪王になっている。これもたしかに不可解である。(なお、蛇足だが、天理教開祖中山みきに対して、神道家元吉田家から、天輪王明神の称号が与えられている)

 などなど受賞作の指摘どおり、たしかに矛盾が多い。これをどう説明・解釈すべきか。むろん、受賞作の結論を冒すつもりはなく、これに触発された筆者なりの考えを次ぐに述べる。 

 Ⅱ)むろん別の解釈があってもいいし、自説にこだわるつもりもない。

 (A)校閲ミスを利用する次元ジャンプ
 SFM連載時、われわれフアンは大いに興奮したものである。欧米SFをしのぐ日本的SFがついに現れたという意味でも快哉を叫んだし、ある者は近代小説の先駆、バニヤン『天路歴程』と比較し、筆者は哲学的叙事詩、ニーチェ『ツァラトゥーストラはかく語りき』を連想した。もとより、『百億も……』もまた超次元スケールの超叙事詩なのである。

 さて――原因としてまず考えられるのは、校閲の不備である。当時のSFM編集部には若い編集者が多かったのだろうか、少なくとも現在とはかなりちがう体制だったと思う。ここで語りぐさになった有名な話を披露すると、小松左京さんの短編『十一人』という題名がなんと『土人』になっていたとか。
 もう一つ、おもしろい作品ほど、校正ミスが多いという〈法則〉が出版界にはある。なぜかというと校閲社者が仕事をおろそかにして夢中で読んでしまうからである。
 では、著者は「早川日本SFシリーズ版」で単行本化されるとき、なぜ、まちがいを訂正しなかったか。実ははそこがSFなのである。
 筆者自身にも経験があるが、あとで字句訂正ではすまない根本的なまちがい気付いたとき、直さずに〈逸脱していく〉ということがままあるのである。なにせ、われわれは〈多次元宇宙〉をも扱うわけだから。平行世界へジャンプして別人格になることも許されているジャンルなのである。

 (B)誤読・記憶ちがいにこそ意味がある/構造主義から再解釈しなおせば。
 レヴィ=ストロースを読めばわかるとおり、〈神話〉は、往々、遠く離れても、話の基本的筋書きは同じである。つまり、しばしば〝ああして、こうして、こなって〟というプロットは同じだ。これがレヴィ=ストロースがいう〈神話の構造学〉である。
 宮野さんも、せっかく、表題を「『百億……』の構造」としたのに、〈構造理論〉の問題への配慮が足りなかったと思う。
 神話構造学では、主役・脇役の立場が代わったり、別の動物や種族、場所が異なるものの〈構造〉は同じ、もしくは類似していることが指摘される。
 レヴィ=ストロースはもっぱら南米などの原住民を研究したが、日本神話でもギリシア神話との偶然ではない構造の一致がみられる。たとえば、イザナギの黄泉下り、アメノウズメ神話など。最近の研究では、往時、ユーラシア北方の支配者であったスキタイが、黒海北岸のギリシャ人植民都市と接触、これが東へ向かい。高句麗経由で日本に入ったのでないかとされる。
 これによって、つまり神話学に基づいて『百億……』を解釈し直せば、とう利天が兜率天になろうが、阿修羅があしゅらになろうが、男が少女になろうが、神話と見なせば許されるわけである。
 つまり、SFは時空構造的に自由度が高いゆえに、モダニズム的価値観で物事をみる一般文学側からは、しばしば荒唐無稽視される。しかし、SFを脱近代的価値観でみれば見え方ががらっと変わる。その場合のもっとも有益で即効性のある武器が、構造主義であり、ポストモダン思想なのである。
 われわれSF人は戦略的でなければならない。宮野さんの登場を筆者は歓迎しつつ、たとえば、百億……』をジュリア・クリステヴァで解釈し直すことも可能だと指摘しておきたい。
 筆者は、天界でも人間界もない中間の阿修羅界にいる阿修羅という中途半端な存在は、クリステヴァの重要概念の一つである、アブジェ(またはアブジェクト)でないかと思う。この用語は、〈同一性〉、〈体系〉、〈秩序〉を攪乱し、テリトリー(境界)も法も秩序も無視するもの。換言すればアンビバレンツ、ハイブリット、異種混合などをさす。〈おぞましきもの〉〈幽霊〉〈死体〉、さらに〈ミルクの薄膜〉から〈アウシュヴィッツ〉まで。
 SFとはきわめて親和性の高いフェミニズム評論の開拓分野は、無限にあるはずである。
                                                                           (荒巻義雄)

2008/3/30 日曜日

SF競馬対決!第2回:高松宮記念

Filed under: SF競馬 — Norma Oyama @ 9:22:56

両者的中の幕開けからひと月ちょっと。
山野浩一「血統馬券」 VS 川又千秋「オカルト数秘術馬券」、
ふたたび対決の日、GⅠレースの日がやってまいりました。

桜咲き誇る中京1200mを駆け抜け、春の最強スプリンターの座を競う
「高松宮記念」。
http://www.jra.go.jp/keiba/thisweek/2008/0330_2/syutsuba.html
レース初連勝なるか、またはニューヒーロー誕生か?

さっそくながら両者の予想は以下。
#山野氏は馬番、川又氏は枠番での予想ですが、気にせず淡々と当たり外れを楽しみます。

■山野予想(「血が走る」東京中日スポーツ3/30より)
※注:数字はすべて馬番
単勝:4
複勝:6
馬連:1、4、16のボックス
三連単:1から4、6、16へのマルチ

「ダンチヒ血脈がモノいい始めたグレイン」
詳細は元記事をご参照下さい。

■川又予想
※注:数字はすべて枠番

先月の川又予言は、以下ご参照ください。
http://speculativejapan.net/?p=20
予想更新は届き次第掲載します。

以上、どんな展開が待ち受けているのでしょうか。
本日、第38回 高松宮記念(GI)は、中京11R:15時40分発走。
結果をお楽しみに!!

ご案内:尾山ノルマ(speculativefictionお手伝い)

2008/3/4 火曜日

寄贈本紹介/新戸雅章著『天才の発想力―エジソンとテスラ、発明の神に学ぶ』(サイエンス・アイ新書/ソフトバンク・クリエイティブ株式会社)

Filed under: 寄贈本紹介 — The Aramaki @ 23:35:11

 科学史家、新戸さんが得意とするフィールドを扱って、好著。同時代に生まれ合わせた天才発明家の光と影。片やエジソン、片や交流発電機を発明した失意のテスラ。時代背景と性格が運不運を分ける。珍しい写真も多く興味深い。これからの21世紀、無資源国日本は、新製品発明など技術立国でやっていかなければならない――という観点からも、著者の存在意義は大きいと思う。(荒巻義雄)

寄贈本紹介/小松左京著『小松左京自伝―実存を求めて』(日本経済新聞社出版社)

Filed under: 寄贈本紹介 — The Aramaki @ 23:26:55

 対談形式だが圧巻である。著者全仕事の〝後書き〟としても読める構成になっているので、小松左京論のデコンストラクションあるいは再評価に、有力な手がかりを与えてくれそうである。特に副題に〝実存を求めて〟とあるのが極めて重要であり、マルクスからフッサール、ハイデガー、サルトルなどへいたる日本戦後の思想風土から、逆に小松SFの真実があぶり出されてくる。いみじくも、巽孝之は、光文社版文庫『日本アパッチ族』の解説で〈サイバーパンク原点説〉を指摘するが、たしかに、われわれ日本人は、ウイリアム・ギブスンの登場(80年代)を待つまでもなく、1964年すでにマン・マシン系を、この最初の小松SFで経験していたのである。なお、筆者個人としては、本書を手がかりに、マルクス思想からポストモダンの流れで『果てしなき流れの果てに』も解読できそうだ――と、目下、考えている。(荒巻義雄)

2008/3/1 土曜日

『夢幻会社』の16mm映画と評論

Filed under: 最新情報, 書評 — admin @ 6:33:25

これはショッキングなニュースですが、先月、自伝Miracles of Lifeを発表したJ・G・バラードが、サンデー・タイムズとのインタビューの中で、末期前立腺癌と診断されたと公表したそうです。
情報の真偽を確かめるためにネット内捜索していたところ、1983年にSam Scogginsによって撮られた23分の16mm映画”Unlimited Dream Company Film”を発見しました。これはバラード自身の語りと、最小限の加工を施された画像と、計算されつくした音響で構成された、じつにみごとな作品ですので。ブログロールにリンクを張っておきました。どうぞご覧ください。また、このことを日記で紹介したところ、若き文芸評論家の岡和田晃さんがすばらしい『夢幻会社』論を書いてくださいました。転載の許可を求めたところ、快諾してくださいましたので、どうぞお読みください。

          *             *             *

『夢幻会社』は、バラードの転回点を指し示す傑作である。

 バラードは、サイバーパンクが示したような、「テクノロジーに取り巻かれた人間」のヴィジョンを、もっとも根源のレベルから追求した作家である。SFが本来有していた存在論的な側面を前面に打ち出した作風により、高度情報化大衆消費社会に付きまとう汚点を抉り出し、ギリシア悲劇のごとき崇高さをもって提示することで、押し付けがましくない形で、現代が抱える病理を指し示した。

 こうしたバラードの創作姿勢は、むろん、モダニズムを引き継いだうえで、メディアと政治、テクノロジーと人間との関係性に着目した真に先鋭的な人々の試みと、共通するところがある。その意味では、『新しい小説のために』を記したアラン・ロブ=グリエ(惜しくも先日、この世を去った)と同様の問題意識をバラードは有している。しかし仮に、ロブ=グリエが筆致と形式によって現代の「悲劇」の崇高化を図ったとしたら、さながらバラードはヴィジョンによってそれを行なったと言うべきだろう。

 そう、バラードはまごうことなき現代の幻視者である。現代日本でも彼に匹敵するポテンシャルを秘めた作家は、青木淳悟、佐藤哲也、笙野頼子、飛浩隆、宮内勝典、向井豊昭など、ほんの一握りしかいないだろう。そして、彼ならではの特性、すなわち巧妙に忍び寄り、突如、読者の横っ面を張り倒すような膨大なイメージの奔流を食らわせる、その醍醐味を思う存分読み手に堪能させてくれる作品、それが『夢幻会社』である。

 『夢幻会社』以前の作品、例えば『コンクリート・アイランド』でも『クラッシュ』でもよいが、テクノロジーを主題にした作品群は、どこかカフカ的に読み手を圧殺しようとするところがあった。

 反対に、『結晶世界』や『ヴァーミリオン・サンズ』で描かれる繊細でありながら蠱惑的なイメージは、それ自体は非常に魅力的だが、イメージの世界に読者を安んじさせるということ(つまりは、ファンタジーによる「癒し」)へのアイロニーが筆の端々から(おそらくは意図的に)垣間見える仕様となっていた。

 ところが、『夢幻会社』におけるバラードは、そうした一切のくびきから解き放たれ、まごうことなきパラダイスを描き出すことに成功しているように、私には見える。それゆえ、数あるバラードの作品のなかでも際立った存在感を放っており、『夢幻会社』を経たバラードが、どこに向かおうとするのかを指し示す上で、転回点とも言える作品となっている。

 もっとも『夢幻会社』で描かれるすさまじいイメージを、いわゆる「ニューエイジ的」と捉える人もいるかもしれない。ただ、「ニューエイジ」が安っぽい「癒し」を盛んに強調することに対し、『夢幻会社』には「癒し」などといった生温いレベルでの治療は存在しない。『夢幻会社』の世界では、生命は「無」から創造される。だから、「復活」はあっても「癒し」はない。主体を恢復させるのは「癒し」ではなく、主体に「無」を認識させたうえで与えられる創発的な力である。だから、生命エネルギーの持つ爆発的なエネルギーが作品に投げかけるイメージそのものが強調されるというわけだ。

 それでいて、既存のイメージを集めて夢のなかでシャッフルさせるような、いわゆるシュルレアリスティックな作品群とも異なる。バラードのイメージは、既存のイメージの反復などという生易しいものでもないからだ。

 原初的な自然の力強さ――近代において、「人間」と切り離された意味での、つまりは(悪しき)ロマン派的な「自然」ではない――を、『夢幻会社』のバラードは、真空より産み出させることに成功している。神なき時代の「創造」(=「発生」?)の物語を文字通り、体現しているというわけだ。

 思想としての「ポストモダン」が、完全に状況としての「ポストモダン」に変化し、「ポストモダン」が抱えた問題意識そのものが忘れ去らようとしている昨今、「ポストモダン」につきまとうシニシズムのみが顕在化している。それを超克するためのヒントとして、いまいちど『夢幻会社』は読み直されるべきなのだろう。ヒーリング本や、ケータイ小説を投げ捨てたうえで。

Copyright(C)2008 岡和田晃 All rights reserved

2008/2/29 金曜日

往復書簡(飛/荒巻)

Filed under: 往復書簡 — The Aramaki @ 7:23:37

荒巻義雄より飛浩隆さんへ
 執筆当時を思いされた今回のメールは、〈後書き〉に相当するのであって、実は〈後書き〉も構造主義やポストモダン批評では重要タームです。
 私は、一般文学とちがい、SF小説にとって、〈後書き〉は重要な手段と考えています。一般文学では扱うのは日常世界であり、時間です。しかし、SFでは、扱う世界それ自身も仮想世界の内部律もフィクションです。これが筒井理論の〈SFの超虚構性〉なわけです。
 作家による自己解説は「女形(おやま)が楽屋で脛の毛を剃っているようなものだと、揶揄されることもあります。これを言ったのは泉鏡花だったはずですが、半村良さんも同じ考えだったように記憶します。
 ところが、ニュークリティシズムでは〈自己言及性〉は容認され、かつ重要概念です。私は、後書きで舞台裏を書くことは、超虚構性と現実との〈ズレ〉の存在を伝える有効な手段であり、かつ本文と後書きの両者間に横たわる空隙に、語られなかった別の物語が存在していると考えるし、またその書かれなかった未知の作品を読む醍醐味を味わうことこそが読書人最高の悦楽であると考えるわけです。

 註、たまたま小松さんの『小松左京自伝―実存を求めて』が送られてきましたが、ある意味では小松さんの自分史(自己言及的)であると考えられます。またこの本によって小松作品の新たな読みも可能になります。
 
 さて――モアレから双子が出てくるとはすごいですね。モアレは謎の量子の性質とも関係するので、この双子は量子双子だと強弁できなくもない。
 比喩(レトリック)ならどうでしょうか。モアレが双子の比喩か、それとも双子の比喩がモアレなのか。などと考えはじけめると、思考の罠にはまった気分になる。
 モアレと双子の関係は、相互的に隠喩(メタファー)だろうと思いますが、小生の指導教官である巽教授のコメントもいただきたいですね。
 なお、作者の意図から飛躍した読者の誤読も、新批評にとって重要です。かくして著作というものは作者に関係なく勝手に自己増殖していくし、それが人間の思考でもあり、言語の宿命もであり、社会というものなのです。またこの辺に、巽さんの〈読むことのサイエンスフィクション〉の意味もあると考えます。
 参考文献 『現代の批評理論①~③』研究社出版/アマゾンでもまだ買えます。なお、一〇年以上前、まだコーネル大博士課程在籍中だった巽さんから教えられた本。

返信(その2):『デュオ』――一つの解読法

Filed under: 往復書簡 — admin @ 5:56:05

前エントリのつづきです。 以下は、前のコメントにつづけて、Speculativejapanのメーリングリストに投稿した内容です。 

>荒巻先生

こちらではお礼が遅れましたが、「デュオ」の感想ありがとうございました。
あちらのエントリにはさっそくコメントを入れたのですが、そこで言及した「なぜ双子か」について簡単に。

その前に描いた「象られた力」もそうですが、当時飛をとらえていたモティーフに「特定の条件がそろったときに観測される情報や力」というものがありました。

ピアノは右手と左手で別々の音を出すのですが、空間に立ち上がるのはひとつの音楽です。二つの縞模様をかさねたときにモアレが現れるのであれば、そのモアレを二つの縞模様に分解して保存することもできるはず。そのようにして人格が保存されるとしたら、というところからスタートしたものです。

もちろんこのアイディアだけを延伸して作品が書けるわけもなくて、当時の自分がほかにもいろいろ抱えていた(であろう)屈託やフェティッシュやないまぜになっている、その過程で荒巻先生のいわれる、神話につながる何かも引きずり出していたのかも知れません。

ひさしぶりに当時のことを考えてみたりしました。かさねてお礼申し上げます。

2008/2/26 火曜日

次回・高松宮記念を大予言

Filed under: SF競馬 — Norma Oyama @ 14:23:30

山野「血統馬券」VS川又「オカルト数秘術馬券」。

第一回対決・フェブラリーSは、両者みごとに的中ー!

翌月曜、早くも川又氏から次回GⅠ・高松宮記念の予想が届きました。
「一足早く、数秘術を駆使して、的中馬券を予言しておこう。」

以下。


第38回高松宮記念(08年3月30日(日)・中京競馬場・芝1200m)

■川又予言(2/25現在)

△1-7
×3-5
○3-7
◎4-6
△5-5
○5-7
△7-7

川又氏コメント:一見してお分かりのように、7枠が強い。
本予想は、直前に! 刮目して待て(^c^)k
—-

なるほど7枠ですか……! てか、枠も出走馬も決まってませんが……
さすがオカルト馬券ならではです。

この怪しい謎の数秘術、氏によれば開催日時の数字をもとに計算、その折々にて話題の事件・トレンドを加味して取捨選択するとか。直前に買い目が変わることもあるようです。

ということで、上記予言を元にした本予想は、
3月30日(日)当日、山野氏東京中日スポーツ競馬面「血が走る」記事掲載にあわせてアップ予定。お楽しみに!

両氏に挑戦してみたいアナタも、自慢の俺予想・俺馬券などふるってコメントどうぞ。当SF競馬にぜひご参加ください(^^)。

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