〈評論〉
『百億の……』の謎は深まる―第3回日本SF評論賞への補足的見解
受賞作、宮野由梨香著『阿修羅王は、なぜ少女か』 の明快さは、題名そのものからして訴求力がある。筆者を含めて多数が不意をつかれた思いがしたことであろう。約一〇〇枚の評論としては十分長い原稿を、終始リズムよく、飽きさせず読ませる力量に感心しながら、昔は吹いていたファンダムの風を感じていた。言い換えると、作家や作品に対する愛情である。丁寧に扱い、決めつけがないので好感が持てた。
さて、賛辞はこれくらいにして、本作に触発されて筆者はどう考えたかを述べておきたい。
Ⅰ)多くの疑問
〔疑問Ⅰ〕
えッ、そうだったの――と思いつつ、手許にあった『百億の昼と千億の夜』(日本SFシリーズ⑪早川版』を読み直すと、やはりあった。一三四ページ、終わりから二行目以降である。(註、筆者は文庫版は持っていない)
「悉達多太子か」
はためく極光を背景に一人の少女が立っていた。
「阿修羅王か」
少女は濃い小麦色の肌に、やや紫色をおびた褐色の髪を、頭のいただきに束ね、小さな髪飾りでほつれ毛をおさえていた。
さらに光瀬龍は、
少年と呼んだほうがむしろふさわしい引きしまった精悍な肉づきと、それに似つかわしい澄んだ、黒いややきついまなざしが、太子の心をとらえた。
と、つづけているので、〈少女〉は直喩でも隠喩でもなく、まさに少女なのである。
たしかに不可解である。阿修羅の性は、吉祥天や弁財天のように女ではないのだから。いかなる書籍でみても阿修羅のイメージは男性である。
光瀬龍が愛した興福寺の阿修羅像はどうであろうか。今ではグーグルの画像データで見ることができるが、多くの人は少年を思い浮かべるであろう。
〔疑問Ⅱ〕
第五章「喪える都市」二二二ページ以降、阿修羅王はなんの断りもなく、平かな表記で〈あしゅらおう〉となる。
プラトンの場合は、オリナエのプラトンと前出されているので、オリナエと表記されても混乱はないのだが。
〔疑問Ⅲ〕
さらに一三五ページ一一行目だが、阿修羅王は宿業によって兜率天に攻め込み帝釈天の軍勢と四億年もの間、戦うことになっている。これも不可解であって、帝釈天のいるのは、阿修羅と同様、とう(リッシンベン+刀)利天である。
〔疑問Ⅳ〕
宮野論SFM二〇ページ上段に光瀬龍の一文があり、乾脱婆王のことが書かれているが、ガンダルバもしくはケンダツバと読む。元はインド神話の妖精で、神々の飲み物ソーマ酒の番人であったが、仏教に取り入れられて、帝釈天に使える音楽奏者となる。帝釈天はとう利天の統率者であるから、当然、乾脱婆王もとう利天に住んでいるはずである。しかし、光瀬龍の創作(金翅鳥王縁起十二経より)では、兜率天となっている。
〔疑問Ⅴ〕
転輪王が転輪聖王と表記されるのはまちがいではない。だが、受賞作の指摘では、ハヤカワ文庫版のあとがきで、突然、転輪王が天輪王になっている。これもたしかに不可解である。(なお、蛇足だが、天理教開祖中山みきに対して、神道家元吉田家から、天輪王明神の称号が与えられている)
などなど受賞作の指摘どおり、たしかに矛盾が多い。これをどう説明・解釈すべきか。むろん、受賞作の結論を冒すつもりはなく、これに触発された筆者なりの考えを次ぐに述べる。
Ⅱ)むろん別の解釈があってもいいし、自説にこだわるつもりもない。
(A)校閲ミスを利用する次元ジャンプ
SFM連載時、われわれフアンは大いに興奮したものである。欧米SFをしのぐ日本的SFがついに現れたという意味でも快哉を叫んだし、ある者は近代小説の先駆、バニヤン『天路歴程』と比較し、筆者は哲学的叙事詩、ニーチェ『ツァラトゥーストラはかく語りき』を連想した。もとより、『百億も……』もまた超次元スケールの超叙事詩なのである。
さて――原因としてまず考えられるのは、校閲の不備である。当時のSFM編集部には若い編集者が多かったのだろうか、少なくとも現在とはかなりちがう体制だったと思う。ここで語りぐさになった有名な話を披露すると、小松左京さんの短編『十一人』という題名がなんと『土人』になっていたとか。
もう一つ、おもしろい作品ほど、校正ミスが多いという〈法則〉が出版界にはある。なぜかというと校閲社者が仕事をおろそかにして夢中で読んでしまうからである。
では、著者は「早川日本SFシリーズ版」で単行本化されるとき、なぜ、まちがいを訂正しなかったか。実ははそこがSFなのである。
筆者自身にも経験があるが、あとで字句訂正ではすまない根本的なまちがい気付いたとき、直さずに〈逸脱していく〉ということがままあるのである。なにせ、われわれは〈多次元宇宙〉をも扱うわけだから。平行世界へジャンプして別人格になることも許されているジャンルなのである。
(B)誤読・記憶ちがいにこそ意味がある/構造主義から再解釈しなおせば。
レヴィ=ストロースを読めばわかるとおり、〈神話〉は、往々、遠く離れても、話の基本的筋書きは同じである。つまり、しばしば〝ああして、こうして、こなって〟というプロットは同じだ。これがレヴィ=ストロースがいう〈神話の構造学〉である。
宮野さんも、せっかく、表題を「『百億……』の構造」としたのに、〈構造理論〉の問題への配慮が足りなかったと思う。
神話構造学では、主役・脇役の立場が代わったり、別の動物や種族、場所が異なるものの〈構造〉は同じ、もしくは類似していることが指摘される。
レヴィ=ストロースはもっぱら南米などの原住民を研究したが、日本神話でもギリシア神話との偶然ではない構造の一致がみられる。たとえば、イザナギの黄泉下り、アメノウズメ神話など。最近の研究では、往時、ユーラシア北方の支配者であったスキタイが、黒海北岸のギリシャ人植民都市と接触、これが東へ向かい。高句麗経由で日本に入ったのでないかとされる。
これによって、つまり神話学に基づいて『百億……』を解釈し直せば、とう利天が兜率天になろうが、阿修羅があしゅらになろうが、男が少女になろうが、神話と見なせば許されるわけである。
つまり、SFは時空構造的に自由度が高いゆえに、モダニズム的価値観で物事をみる一般文学側からは、しばしば荒唐無稽視される。しかし、SFを脱近代的価値観でみれば見え方ががらっと変わる。その場合のもっとも有益で即効性のある武器が、構造主義であり、ポストモダン思想なのである。
われわれSF人は戦略的でなければならない。宮野さんの登場を筆者は歓迎しつつ、たとえば、百億……』をジュリア・クリステヴァで解釈し直すことも可能だと指摘しておきたい。
筆者は、天界でも人間界もない中間の阿修羅界にいる阿修羅という中途半端な存在は、クリステヴァの重要概念の一つである、アブジェ(またはアブジェクト)でないかと思う。この用語は、〈同一性〉、〈体系〉、〈秩序〉を攪乱し、テリトリー(境界)も法も秩序も無視するもの。換言すればアンビバレンツ、ハイブリット、異種混合などをさす。〈おぞましきもの〉〈幽霊〉〈死体〉、さらに〈ミルクの薄膜〉から〈アウシュヴィッツ〉まで。
SFとはきわめて親和性の高いフェミニズム評論の開拓分野は、無限にあるはずである。
(荒巻義雄)